津村巧の未発表小説群

(携帯版)

 

暴走

*食前でも食後でも一応読めますが、覚悟が必要です*

 

 俺は朝、目を覚ました。

 いつも通りの朝……。

 ……ではなかった。

 釘を打ち込まれても涙を流さないほど気丈な筈の母が、布団の隣りに座ってメソメソと泣いていたのだ。

 俺は飛び起きると、

「ど、どうした? 何かあったのか?」

「ご、ごめんなさい」

「何のことだ?」

「これまで隠してたんだけど……」

「何を?」

「あんたがアホだった、てことを」

「何ぃ?」

 母は号泣した。

「ごめんなさい、これまで隠していて。あんたはアホなの。正真正銘のアホなの」

 俺は腹が立った。当然だろう。実の母にアホと呼ばれて喜ぶ馬鹿はいない。

「朝っぱらから下らないこと言うな」

 俺はキッチンに入った。

 父がいた。メソメソと涙を流していた。父が涙を流すのを見るのは生まれて初めてだ。びっくりした。

「どうした、親父?」

「すまない」

「何のことだ?」

「これまで隠していた。しかし、もう隠せない。だから言おう」

「何を?」

「お前は、お前は……アホなんだ!」

「な、何を言ってる?」

 父は土下座した。

「すまなかった。お前はアホなんだ。正真正銘のアホだ。許してくれ。この愚かな父を許してくれ!」

 俺は顔をしかめた。父も母もどうかしている。

「はい、はい、分かった」

 と、俺は適当に言うと、冷蔵庫を開けた。

 姉がキッチンに入った。真っ平らの、女としての魅力に完全に欠ける体型だ。

 姉は、俺の姿を見て足を止めた。顔色がみるみる悪くなる。

「どうした、姉貴?」

「あ、アホ……」

 俺は姉貴に色々言われたことがある。馬鹿とか、間抜けとか、頓馬とか。無論、アホと呼ばれたこともある。しかし、ガキの頃の話だ。最近はそんな風に呼ばれたことはない。

「アホが何だよ?」

「あんた、自分がアホだ、て知ってるの? 正真正銘のアホだ、て」

「知らねえよ! どうしたんだ、みんな?」

 姉は大粒の涙を流した。俺をしっかりと抱きしめると、

「これまで馬鹿とか間抜けとか言ってごめんね。本当はアホだったのに。アホを馬鹿と呼んだのは間違いだった」

 俺は姉を押し返すと、

「馬鹿なこと言うなよ!」

「本当にごめんね」

「馬鹿なこと言うな、ての」

 ふと見ると弟がいた。視線が合う。

「ヒイイイイイイイッ」

 と、弟は悲鳴を上げ、逃げた。「アホだ、アホだ、アホだ! 正真正銘のアホだ。アホは遺伝だぞ! 俺もアホの可能性が高いぞ! そんなの嫌だ! アホは嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だあっ!」

 俺は無性に腹が立った。自分が賢くないのは認める。しかし、大学は三流ながらも卒業しているし、中企業ながらも就職し、まずまずの収入を得ている。来月はアパートで一人暮らしを始めるつもりだ。アホ、アホと呼ばれるほど無能ではない。

「お前ら、馬鹿か?」

 と、思わず叫んだ。

「アホは嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」

 ――お前はとっくにアホだよ。

 出勤前に散歩でもするかと俺は考え、外に出た。

 近所のお節介オバサンと鉢合わせする。

 俺が挨拶しようとすると、お節介オバサンは、

「お気の毒に……」

「え? 何のことで?」

「あなた、アホなんでしょ? 正真正銘のアホなんでしょ?」

 俺は開いた口が塞がらなかった。

 ――馬鹿か、このオバン?

「だ、誰がそんなことを言ったんで?」

 オバサンはメソメソと泣くと、

「可哀想に。あなた、アホだから、て絶望したら駄目よ」

 ――張り倒されたいのか、このオバン?

 お節介オバサンは俺の両肩を掴んだ。

「人間、生きていれば希望はあるんだから。分かった? アホにも希望はあるの。アホだって幸福になれる。大丈夫よ」

 俺は自宅に駆け戻った。

 

* * *

 

 俺は、「アホに産んだことを許して!」と泣き叫ぶ母を後に、出勤した。

 会社のあるビルに入る。

「あの……」

 と、声がした。

 俺は振り向いた。

 杏子だった。経理課にいる。一年前から付き合い始めた女だ。結婚も考えている。胸がでかい。彼女のパイ擦りは天下一品である。

 俺はホッと息をすると、

「ちょっと聞いてくれよ。家の連中とさ、近所の連中がおかしくて……」

 杏子は頭を深く下げると、

「ごめんなさい」

「え? 何のこと?」

 杏子は顔を上げた。目が涙で一杯だ。

「ごめんなさい。あたし、アホとはどうしても付き合えないの」

 ――お前、ブッ飛ばされたいのか?

「ど、どういう意味だ?」

 杏子は大粒の涙をこぼした。

「アホを差別しちゃいけないのは分かってる。理屈では分かってるんだけど……。でも、でも……駄目なの。ごめんなさい。あなたはいい人よ。でも、でも、アホは……ごめんなさい! 本当にごめんなさい」

 ……の言葉を残すと、杏子は走り去った。

 俺は呆然と立ちすくんだ。

 

* * *

 

 俺は自分のデスクについた。杏子にふられたショックから立ち直れないでいる。これといった理由もなくふられたのだ。立ち直れたらおかしい。

 ――どうなってるんだ、一体?

 同僚の吉中が近寄り、

「おい」

「何だ?」

「なぜ俺に隠してたんだよ」

「何を?」

「お前が正真正銘のアホだった、てことを。それくらいで俺との友情が崩れるとでも思っていたのか?」

 ――馬鹿か、こいつ?

「お、俺はアホじゃない!」

 吉中は顔を真っ赤にして、

「俺を信用できないのか?」

「し、信用も何も! 俺はアホじゃないんだ!」

 吉中は聞いていなかった。

「俺を信用できなかったのか。残念だ。正真正銘のアホだからといって……」

 ――こいつは確実に馬鹿だ。

「ちょっと」

 と、声が上がった。

 ふとその方向に目を向けると、上司の沢村がいた。俺を手招きしている。

 俺は沢村に近寄り、

「何でしょう」

「今日、君が行く商談だったんだが……」

「準備は万端です」

 と、俺は自信満々に答えた。

「実は言うと、君には行ってもらいたくないんだ」

「なぜです? この商談は私がまとめて……」

「そうなんだが……。君は、その、アホだろ? アホだからといって差別するのはよくないのは知っているが、相手側の印象を悪くしては……」

 ――こいつまで馬鹿になっちまった。

「私はアホじゃありません!」

「認めたくないのは分かる。しかし、事実は事実として認めなければ。君がアホだということを。しかもただのアホではなく、正真正銘のアホ」

「俺をアホと呼ぶのはやめろ!」

 と、俺は叫ぶと、沢村に拳を振るった。

 

(バキッ)

 

 沢村は顔面にフックを食らい、尻餅をついた。

「お、落ち着いたまえ。アホだからといって、君を解雇するなどの処分を下すつもりはない。ただ、会社として、考える余裕を……」

「俺はアホじゃねえんだよ!」

 俺は沢村に蹴りを浴びせた。

 

(ドスッ)

 

「よ、よしたまえ! アホだからといって、絶望することは……」

「俺はアホじゃない!」

 俺は、沢村に蹴りを何十発も浴びせた。

 

(ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ、ドスッ……)

 

 周囲が騒がしくなった。

「アホが沢村に暴行を加えてる」

「アホの暴走だ」

「アホを取り押さえろ」

「アホを取り押さえようとして怪我をしたらアホが移るのでは? 血液感染するんだろ?」

「アホは空気感染もするのでは?」

「じゃ、我々もアホを感染したのか?」

 ……などの発言が耳に入った。

「俺をアホと呼ぶな!」

 と、俺は吼えると、手当たり次第にものを投げ付けた。「俺はアホじゃない! アホじゃない! アホじゃないんだ!」

 社内は騒然となった。男女問わず悲鳴を上げながら駆け回る。

「アホの暴走だ!」

「アホが暴れてる!」

「気を付けろ! アホを感染するぞ!」

 六人の警官が到着した。全員が銃――六連発のニューナンブ回転式拳銃――を、構えている。

「おい、落ち着け」

 と、警官の一人が言う。

「落ち着いてもらいたいなら、俺をアホと呼ぶのはよせ!」

「君が正真正銘のアホだということで絶望的になっているのは理解できる。辛いのも分かる。事実を事実として受け入れたくないのも分かる。しかし、人生を投げ出すな。正真正銘のアホでも普通の暮らしができるんだ。……できると思う。専門家に聞いてみないとハッキリしたこと……」

 警察にまでアホと呼ばれて、いい気分になれる訳がない。

「俺はアホじゃねえ!」

「落ち着け!」

「それなら、俺をアホと呼ぶのはよせ!」

「分かった、分かった。もうアホと呼ぶのはよそう」

 隣の若い警官が、小声で年長の警官に、

「アホをアホと呼べないなら、どう呼ぶんです?」

「馬鹿は?」

「アホと馬鹿は全く違います。馬鹿に失礼でしょう」

「間抜けは?」

「アホと間抜けも全く異なります。間抜けに失礼です」

「アンポンタンは?」

「アホとアンポンタンも全く違います。アンポンタンに失礼ですよ」

「……じゃ、アホと呼ぶしかないなあ」

「俺はアホじゃない!」

 と、叫ぶと、飛びかかった。

「ヒイイイイッ。アホに殺される! ヒイイイイッ」

 警官らはニューナンブを発砲した。

 

* * *

 

「……本日、アホが暴走する事件がまた発生しました。会社員の二四歳の男性です。駆け付けた警官が発砲した三八発の銃弾により射殺されました。警察は、死亡者が出たのは残念だが、妥当な対処だった、との声明を出しています。この件について、総理大臣がコメントを出したので、お聞きください」

 

記者:今日、またアホが暴走しましたが、このことについて総理はどう思います?

総理:悲惨な事件だ。正真正銘のアホだからといって暴走するとは……。こういうことが二度と起こらないよう、対策を取らなければならない。

記者:アホを集めてどこかに収容するとか?

総理:具体的な対策に関して現在全閣僚を招集して協議している最中なので、コメントは現段階では避けたい。

 

「……本日の事件について、野党の社*党党首は次のようにコメントしています」

 

社*党党首:正真正銘のアホでも人間であることには変わりません。人権があります。差別してはなりません。また、政府は正真正銘のアホを適切に保護し、治療する義務があります。正真正銘のアホを野放しにした政府や与党の対応には疑問を感じます。我が党は、今国会で、アホ対策の為の特別予算を編成することを要求し……。

 

「……アホの問題は全世界に拡がりつつあります。国際的な対策が必要とされる段階にまで至っているようです。残念ながら、正真正銘のアホは永遠に不滅のようです」

 

* * *

 

 はっきり言いましょう。

 この下らない本編を最後まで読み切ったあなたもアホです。正真正銘の。

 

 

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