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津村巧の未発表小説群

(携帯版)

 

明るい話

*非常に明るい話です。食前食後でも、良い子でなくても読めます*

 

 お先真っ暗である。

 新聞も暗いニュースしか記載しない。

 

『アフガニスタンで紛争勃発。周辺諸国にまで拡大する恐れ』

『東京株式市場で全銘柄大幅下落。世界同時株安に発展か』

『ソウル市明洞地区で大規模火災発生。死傷者五〇〇名か?』

『全国失業率史上最悪。一〇パーセント越え目前』

『大手建設業の〇〇組経営破綻。連鎖的破綻の可能性あり』

『中国でクーデター未遂。首相と副首相が死亡か?』

『米国東沿岸部が超大型台風により浸水。死者行方不明者数千名』

『犯罪発生率急上昇。凶悪犯罪が前年の倍』

 

 ……等々。

 私は溜息をついた。たとえ嘘でもいいから、明るいニュースを掲載できないのか。ニュースが明るくなったくらいで、どうにかなるわけではないが。

 最近は、普通の人間が普通に暮らすことが難しくなっている。

 私は新聞を畳んだ。奥の壁掛け時計に目を向ける。昼休みもそろそろ終わり。これ以上落ち込む前に、仕事を再開するか……。

「ちょっと」

 と、背後から声がかかる。

 私は振り向いた。

 上司の芝原が手招きしていた。私より一〇〇倍も健康そうな男だ。一〇も年下だから、当然か。目つきも一〇〇倍悪い。ここまで目つきの悪い男が、なぜ営業部に所属しているのだろう?

「何でしょう?」

「こっちへ」

 芝原は会議室へ向かった。

 私は後に続いた。後に続くしかなかった。

 会議室は無人だった。丸テーブルと椅子が、狭苦しい空間を一層狭苦しくしている。

 こんな部屋でまともな会議ができるものか、と毎回のように思う。

 芝原は会議室のドアを閉じ、私を無言で見つめた。

 私は、芝原が椅子に向かうのを待ったが、彼はその様子を見せなかった。壁に寄りかかるだけだ。腰を下ろすまでのことでもない、と考えたらしい。

「あの、何でしょう、課長?」

「クビだ」

「え?」

「あんたはクビだ」

 私は凍った。

「クビ、て……。解雇でしょうか?」

「そうだ」

 自分の成績がこのところ落ちっぱなしだったので、全く予期せぬことではなかったが、やはりショックだった。全身が汗でずぶぬれになる。

「その……、いつまでにここを出なければならないんでしょう?」

「今日までに」

 私は卒倒しそうになるのを辛うじて堪えた。

「きょ、今日、ですか?」

「そうだ。今日。明日はもう来なくてもいい」

「ですが……」

 何の事前通告も与えずに解雇するのは、労働基準法で禁じられているのでは?

 芝原は、私の思考を読んだかのように、

「今日辞めれば、退職金を上乗せしてやる。それでいいだろ?」

 と、冷たく言い放つ。

「再就職の目処が全くないまま解雇されると、困ります」

「こっちはリストラが進まないと困るんだ。あんたさ、家族はいないだろ?」

「息子が一人……」

「既に独立してるんだろ? 福岡、いや、小倉にいるとか。奥さんはいない。つまり、あんたは一人だ。家族持ちだと本人以外にも困る奴が出てくるから、こっちとしてもクビを切り難い。しかし、あんたは独り者だから、困るのはあんただけ。だからいいだろ?」

 最近は、普通の人間が普通に暮らすことが困難になっているどころか、不可能になってきている。

 私は、汗を滝のように流し続けていた。

「でも、困ります」

 借金がまだ残っているのだ。

 芝原は、私の右肩を掴んだ。

「だから、言ってるだろ、退職金を上乗せしてやる、て。あんたはこの会社で二五年も勤めている。退職金も半端じゃない。それを上乗せしてやるんだから、クビになってもしばらくは食っていける。のんびりと次の職を探せばいい。それとも、今、ここで解雇の通告をして、月末に解雇宣告してもらいたいか? その際は、退職金の上乗せはないぜ。もしかしたら減額されてるかも。大幅にな。それでもいいのか?」

 減額されているかも、ではなく、確実に減額されるだろう。

「それも困ります」

「じゃ、今日辞めるんだ」

「しかし……」

 芝原は、私の両肩を掴んだ。

「会社の為なんだ。今、大変なのは知ってるだろ? 分かってくれよな」

 会社の業績が四期連続して前年を大幅に下回り、赤字経営が続いていることは、知らされていた。破産は時間の問題だと。

 そういう意味では、倒産する前に辞め、退職金をきっちり貰うのも、一つの手ではないか……。

「……は、はあ」

 芝原は、眩しいほどの笑顔になった。ああ、こいつは偽善に満ちたこの笑顔のお陰で営業の仕事が出来るのか、と私は納得した。

「よかった、よかった。あんたなら理解してくれると思ってたんだ」

 全然理解してません、と私は反論しそうになったが、口を噤んだ。

「じゃ、今から机を片付けてくれ。仕事はもういいから」

 私は平手打ちを浴びせられたような気分になった。

「で、でも……」

「片付けが終わったら、帰宅してもいい。じゃ」

 と、芝原は言い残すと、会議室を去った。

 私は呆然と立ちつくした。

 普通の人間が普通に暮らすことさえ許されない。

 こんなことがあっていいのだろうか。

 お先真っ暗である。

 思えば、私や、私の血縁の人生は、常に暗かった。

 

*  *  *

 

 父は、私が生まれる前に母と別れた。別の女の元へ走ったらしい。父と会ったことは一度もない。写真もなかったので、どんな姿か想像すらできない。想像したくもなかった。今、どこでどうしているのか全く知らない。

 母は、父が去った後、たった一人で私と四人の兄姉の面倒を見なければならなかった。現在でも女手一つで五人の子を育てるのは生やさしいことではない。女性の社会進出がまだ一部の団体による掛け声に過ぎなかった当時となれば、尚更である。生活は常に困窮していた。家の中を探し回っても合計で一万円以上の現金があることは、一度もなかったと思う。一日にまともな食事が一回できれば良い方で、まともな食事が二日に一度、あるいは三日に一度、というのも珍しくなかった。

 それでも五人の子が全員普通で、手が掛からなかったら、母の苦労もいくらか軽減されていただろう。

 上の兄と下の姉は、普通ではなかった。学生の頃から年中警察のお世話になっていた。母はその度に警察署へ出向き、事件担当者らの前で号泣しながら土下座した。そんな母の哀れな姿を見ても、二人は反省の気配も見せず、翌週――下手すると翌日――にはまた問題を起こして補導されていた。その内二人とも少年院行きとなった。が、その程度で更正するような二人ではなかったので、出所後も問題を起こし続けた。

 上の兄――正一――は、暴力行為を犯す為に生まれてきたような人間だった。小学生の頃から家族に暴力を振るい始めた。母は勿論、私や兄姉も生傷が絶えなかった。それから間もなく家族以外の他人にも手を出すようになった。相手が女だろうと、子供だろうと、老人だろうと、暴力を振るった。

 私は、長兄に殴り飛ばされる度に思ったものである。正一は大人になってもこんな愚かなことを続けるのか、と。

 その疑問は応えられないままとなった。正一は、成人することなく他界したからだ。

 高校三年の時、正一は少年グループ同士の闘争に巻き込まれ、刺殺された。ナイフの傷跡は数十ヶ所にも及び、致命傷を与えたのが誰であったのか、結局分からずじまいだった。

「不良が一人くたばったくらいで、なぜ我々が動かなきゃならないんだ? 社会のゴミが一人減ったんだから、いいじゃないか。食い扶持が一人分浮くのだから、その意味でも大助かりなのでは?」

 警察は、遺族の前でこう言い放ち、事件捜査に消極的であったことも、助けにならなかった。

 母は、長兄の死を大いに悲しんだ。たとえろくでなしでも、自分が腹を痛めて産んだ子だったのだ。母は毎日のように墓参りに行った。私自身は、警察が言った通り、むしろ殺されてよかったのでは、と他人事のように思っていたが。

 下の姉――和子――は、万引きや恐喝など、せこい犯罪で少年院の出入りを繰り返した。成人後は監獄を出入りした。今も監獄にいる。職場の金を盗んだことで、二年の実刑判決を言い渡されたのだ。防犯カメラの真ん前で盗みを決行したという。捕まえてくださいと言わんばかりに。なぜ和子はそんな愚かな真似をしたのか。

 思えば、彼女は半生を塀の中で過ごしている。和子にとっては、あの狭くて不自由な空間の中こそ極楽で、広くて自由な娑婆は地獄でしかないのかも知れない。

 一方、もう一人の兄――清二――は、遺伝子のいたずらか、と疑いたくなるほど優秀だった。容姿も、男女問わず一目惚れするほどだった。女子に追い回されて困惑した顔をする清二を、私は歯ぎしりして妬んだものである。清二は、学校の成績もダントツだった為、奨学金が得られた。東京の一流大学へ行けると。その知らせを聞いた母は、歓喜の涙を流していたのだが……。

 上京直前に、清二は飲酒運転による事故に巻き込まれ、呆気なく死んだ。我が家の期待の星が消滅したのである。

 母の嘆き方は、正一の時とは比べものにならなかった。朝、昼、夜……と一日三回も墓参りに行くようになったのだ。

 もう一人の姉――享子――は、私と同様、地味な存在だった。中学を卒業すると就職し、数年後に職場の男と結婚した。ごく普通の生活を送っていたようだが、長く続かなかった。彼女の夫が知人の借金の連帯保証人になったが故に、多額の借金の返済を迫られるようになり、夜逃げする羽目になったのである。一五年も前のことだが、消息は未だに不明だ。享子には二人の息子がいた。下の子は現在二〇歳になるはず。どこで、どうしているのか。あるいは、とっくにこの世の者ではなくなっているのか……。

 母はこの世にいない。五年前のある日、突然心臓発作で倒れ、そのまま息を引き取った。六六歳だった。医療技術が発達している現在、六〇代は『老人』と呼べなくなっている。しかし、母は死んだ。幸福感など一度も味わうことなくあの世へ旅立ったのだろう。良かったことといえば、人生があまりにも過酷だった為、死が現世からの解放になったことではなかろうか。

 

*  *  *

 

 私は、自分で言うのも変だが、まじめだった。正一や和子と違い、警察の厄介になったことは一度もない。目立たない存在だった。良い意味でも、悪い意味でも。『普通』という言葉が自分以上に当てはまる人間はいないだろう。

 学校の成績も最低ではなかったが、飛び抜けて良いわけでもなく、中学卒業後は進学することなく就職した。

 現在は、学歴は全てではない、という掛け声が飛び交っているが、当時は学歴こそ全てだった。中卒より高卒が優遇され、高卒より大卒が優遇され、更に二流大卒より一流大卒が優遇された。

 中卒の私は、会社にとってゴミ人間同然だった。賃金は無論最低。いつまで経っても出世できず、後から入社してきた若い連中に次々越される有様だった。

 幸せを掴むチャンスは何度もあった。いや、積極的に掴もうとした。しかし……。

 その度に選択を誤った。まるで悪魔が私の手を掴み、悪い方へ悪い方へと導いたかのように。

 妻――元妻――が、いい例だろう。地味で退屈な自分に見合った女を伴侶として選んだつもりだったが……。

 贅沢好きで、金遣いがあそこまで荒いとは夢にも思っていなかった。なぜ妻は私みたいな普通の男を結婚相手に選んだのか、と思ってしまう。妻は、私の給料だけでは充分な贅沢ができないと知ると、ためらうことなく高利貸しの元へ走り、借金した。返済が迫ると、決まって稼ぎの少ない私を罵倒した。

 振り返ってみると、結婚生活が一二年間も続いたのは奇跡というしかない。私は自分自身の家から追い出された。妻が作った借金を背負って。

 離婚後も、暮らしは一向に良くならなかった。借金の返済や養育費の支払いなどで、むしろ悪化した。私は子供の時と同様、まともな食事は一日一回、時には二日に一度という日々を送った。

 普通の生活だけを望む普通の人間なのに、願いが叶えられない。

 お先真っ暗である。

 

*  *  *

 

 私は会議室から出て、自分の机を片付け始めた。いざ辞めるとなると、家に持ち帰るものなど殆どないことに気付く。この会社にいた二五年間は結局何だったのか、と嘆きたくなった。

「あれ、どうしたんです?」

 と、同僚の馬淵が明るい笑顔で問う。同僚といっても、二〇も年下だ。精力は私の一〇〇〇倍はあるように感じる。

 私は何と答えればいいのか、必死に考えた。

「その……、会社を辞めることになりまして」

「今日、ですか?」

「ええ」

 馬淵は頭を掻きながら、

「それは知らなかったなあ」

 こっちだってほんの一〇分前まで知らなかったから当然だ、と私は言い返す代わりに、

「色々お世話になりまして」

「そんな悲しそうな顔をしなくても。まさか、明日はもう来ない、なんてわけじゃ……」

 私は無理矢理笑顔になると、

「そういうことになりますね」

 馬淵の顔から笑みが消える。自主退職でないのを察したようだ。

「そうでしたか。えーと、その……、寂しくなりますね」

「死にたくなるほど寂しくなります」

「そうですか。じゃ、仕事があるんで」

 と、馬淵は言うと、私から足早に離れた。自分にまだ仕事があるのかどうかを確認しに向かったようだ。

 私はその後ろ姿を見送りながら、溜息をついた。

 普通の人間が普通に暮らせない。

 お先真っ暗である。

 

*  *  *

 

 会社を解雇されてから二ヶ月。

 再就職の当てはなかった。

 当てがあるわけないのだ。普通の、何の取り柄もない中年男を、誰が雇うのか。

 退職金で借金を完済できたのが、せめての救いである。

 過去も暗かったし、現在も暗いし、将来も暗い。

 ただただ普通に暮らしたいだけなのに、それも許されない。

 暗い人生だ。

 だからせめて……。

 自分が過ごす部屋を明るくしたい。自室まで暗かったらやっていけない。

 私は照明器具を買った。

 ただの照明器具ではない。特別注文の器具だ。

 灯台で使われているBV−2型メタルハライドランプとレンズ。特製レンズが、四〇〇ワットの電球によって発生する光を、二〇〇万カンデラにまで引き上げる。

 一〇〇ワットの白熱電球の場合、光度は約一三〇カンデラだから、私が購入した照明器具は、単純計算で白熱電球一万五〇〇〇個分の明かりを発せられることになる。光達距離は二〇海里(約三万七〇〇〇メートル)で、新聞なら一〇〇〇メートル離れていても問題なく読めるという。

 私は、照明器具を部屋の中央に設置した。元々狭い部屋が、一層狭くなったように感じた。

 高さ一・五メートルの照明器具を見つめる。ベネチア産のガラス細工のようでもあり、美しい。

 一周した後、点灯してみた。

「うわっ」

 室内が、目を開けていられないほど明るくなった。放熱も凄い。壁や天井が焦げるほどだ。何もかも白く染まる。

 私は足を踏ん張った。レンズから放たれる光はまるで質量のある物体のようにも思え、踏ん張っていないと後方に吹っ飛ばされそうな感じがするのだ。

 爽快な気分になった。

 電気料金は月数十万円にもなるだろうが、それでもいい。暗い人生なのだ。自分の部屋くらい明るくしなければ。さもないと、普通の人間でいることさえままにならない。

 メタルハライドランプは室内を照らし続けた。

 これは最高だ、と私は思った。

 二基目を注文することを、その場で決めた。そうすれば、光度は四〇〇万カンデラになる。私の部屋はもっともっともっと明るくなる。部屋を床から天井まで鏡張りに改装しよう。

 二つの電球の間に座れば、私は死ぬほど眩しい明かりに包まれるのだ。

 これで私は普通の、どこにでもいる、全く目立たない人間でいられる。

 暗い暗い人生における唯一の光。

 私は腹を抱えて笑った。何だ、自分もまんざら捨てたものではない、と。

 暗い、暗い、とぼやくだけで何の手も打たない連中は、単なる無能者である。

 

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